厄除・七五三・家内安全・人形供養は、群馬の玉村八幡宮

群馬県の玉村八幡宮
厄除・家内安全・商売繁盛・結婚式・七五三・お宮参り・人形供養は、群馬の玉村八幡宮へ

- ご祭神・ご由緒 -

■鎮座地

群馬県佐波郡玉村町大字下新田字八幡1番地
玉村町中心部、例幣使街道(国道354号)沿い。
新町駅よりバスにて約20分、前橋、高崎、伊勢崎駅より約30分。

■ご祭神

誉田別命ほんだわけのみこと(第十五代応神天皇)
神道界だけでなく、仏教界でも仏法守護の神として「八幡大菩薩」称号を奉られるほど強いご神徳があります。
気長足比売命おきながたらしひめのみこと(神功皇后 応神天皇の母)
応神天皇の母神として、安産・教育・子育てなどのご神徳があります。
比咩神ひめのかみ


■ご由緒

当宮は日光例幣使道玉村宿の北側ほぼ中央、上新田と下新田の境に鎮座し、参道が街道に向かい延びています。この境内地はもと中世の館跡と伝えられています。はじめは角渕村にあり、社名も角渕八幡宮と称していました。玉村八幡宮に関する資料として当宮には二つの縁起が保存されています。一つは『上野那波郡府内角渕八幡宮縁起』で、もう一つは『上野国玉村八幡宮本紀』です。前者は当宮別当神楽寺遍照院の僧が元和元年(1615)に編み、後者は前橋藩の儒官古市剛が貞享3年(1686)に前者縁起を参照して著したものであります。当宮の創立沿革を知る史料としてはこの二つの縁起のほかには棟札類がわずかに残っているにすぎません。これらの史料をまとめると、当宮の創立と沿革は次のようになります。

鎌倉時代の建久6年(1195)に源頼朝が上野奉行安達藤九郎盛長をして鎌倉鶴岡八幡宮より御分霊を勧請して創建した八幡神社(町内角渕鎮座)が当宮の元宮です。角渕の八幡神社には本社、塔、鐘楼、山門、鳥居などが建てられました。応永18年(1411)に鎌倉公方足利満兼が大破していた堂舎、僧坊を再興し、さらに永正4年(1507)には白井城(現北群馬郡子持村)城主長尾氏が戦火で消失したものを再建しました。

慶長10年(1605)、関東郡代の伊奈備前守忠次が、当地の新田開発の任にあたって「今我荒原を以って熟田と成さんと欲す。伏して請い願わくは神霊我を祐(たす)けよ。若しその功成る時は即ち謝するに神社の造立を以ってせん」とその成就を祈願しました。慶長15年(1610)、前橋の総社から天狗岩用水を延長する代官堀(滝川用水とも称される)を開削して開田するという一大事業が無事竣工し、角渕の八幡神社の本殿を移築し、現在地に奉斎しました。

境内地は伊奈備前守の陣屋と開発に協力した和田与六郎の屋敷に挟まれた中世の環濠屋敷跡とされ(外周の濠は狭められたり、一部埋め立ててあるものの、ほぼ旧態をとどめています)、新たに設置された上新田村と下新田村の境に位置します。

以来、武神として諸武将の尊崇をあつめて栄え、近世には厩橋(前橋)藩主酒井氏の庇護を受けるところとなりました。寛永15年(1638)酒井雅楽頭忠清によって修理が加えられ、慶安2年(1649)8月、三代将軍徳川家光より朱印地30石の神田を賜りました。寛文7年(1667)、再度酒井忠清によって社殿の修理が成されました。貞亭元年(1684)には、酒井雅楽頭忠明によって新院良仁(ながひと)法皇(後西天皇)の御宸筆(ごしんぴつ)、「八幡大菩薩」の神号が奉納されました。その後もたびたび修理が加えられましたが、寛延2年(1749)に崇敬厚かった酒井氏が播磨国姫路に移封されて以降は領主による修理は行われず、以後は七郷十二ヶ村が協議の上「修理講」を興し、その講金に朱印地の収穫を合わせて祭儀の執行と社殿の修理にあてるようになりました。

江戸時代は神楽寺がその別当職でしたが、明治初年の神仏分離政策により八幡宮と神楽寺はそれぞれ独立しました。明治6年村社に列せられ、同41年1月31日境内社稲荷神社ならびに近郷の神社8社を合祀、同年8月1日には室町事態の建築様式を残す本殿が国の特別保護建造物(旧国宝)として指定。大正14年には県社に列せられ、昭和25年に本殿が国の重要文化財に指定。昭和11年、平成11年に社殿の修理が行われ今日に至っています。

■境内社(主な御神徳)

五神社


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